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宗教とは何のためにあるのか、を考えさせられる話【スリーピング・ブッダ 感想】

※ この記事には、宗教に関する内容が含まれています。

 

寺の跡取りである広也と、バンドを挫折して僧侶の道に進んだ隆春。対照的な2人が、同じ寺で修行に入る。個性豊かな同輩、先輩に出会い、修行の中で2人はお互いを理解し、仏教への理解を深めていく…という、簡単な話ではなく。

 

修行し、寺を出て、僧侶になる。それは『僧侶としてのはじまり』に過ぎず。僧侶になったからといって、仏教のすべてを理解できるわけではないのだ。

寺の跡取りである広也と、一般人として育った隆春の間には思想の差がある。広也の中には地元の寺で起こった色々がある。2人は時に対立して、時に歩み寄ろうとする。影響しあうこともあるし、理解しあうこともあるし、理解しあえないこともある。

それぞれの仏教、というよりは『宗教』の形がある。2人はどんな道を歩んで、どんな答えをだすのか。最後に2人にだした答えが、とても印象に残る話だった。

 

 

※ここから先はネタバレ+個人の宗教観の話が多めです※

 

 

 

この記事は あざらしいっぴき Advent Calendar 2023 の5日目の記事です。

 

本当は夏に読み終わってたんですが、感想が宗教と切り離すことができなかったので、どう言葉にしたものか…と思ってお蔵入りしてたんですね。でも、やっぱり『印象に残った一冊』なので、アドカレに乗じて感想を書くことにしました。

ざっくりネタバレすると、広也はその優しさと高潔な姿勢から祀り上げられ新興宗教の祖となり、隆春はそんな広也と決別して僧侶をやめ、フリーターになった。

 

広也は、新興宗教の祖となろうとしてなったわけではない。彼は彼なりの理想の体現のために、来るもの拒まず、来るものすべてに優しく、来るものすべてを救おうとした結果、結果として『なってしまった』のだ。

隆春は元々安定を求めて僧侶を志した。しかし僧侶の道に『心の安定』はなかった。だから彼は僧侶をやめ、フリーターとなり、生活は不安定かもしれないが、ずっとずっと心が充実した生活を送っている。

 

宗教に答えはない。だから、広也の選択も隆春の選択もひとりの考え方でしかない。

 

2人の選択の分岐点となったのは、人生に悩んだ女性が寺に駆け込んできた時。最初は広也は女性の話をただ、黙って聞いた。それから女性は毎日来るようになった。隆春は女性がなぜ毎日来るのか、というのを疑問に思っていた。広也は女性のことは自分に任せて欲しいと言い、一対一で話すようになった。隆春が出稼ぎの季節労働から戻ってきたとき、寺には女性が連れてきた人たちで溢れていた。

 

寺に住む人々は、寺を心の拠り所にしていた。広也もまた、宗教を、寺を、心の拠り所にしていた。隆春は最後に『縛られないこと』を選んだ。隆春は最後に縛られないことを選んだけれど、最後まで広也を否定しなかった。広也はすごく真面目に、他人の苦しみを取り除こうとしていて、それの結果が、あの寺の新興宗教なのだと理解していた。

 

実際、そうなのかもしれないと思う。私も一時期とあるバンドのボーカルのことを『かみさま』だと思って、心の拠り所にしていた。今でも心の拠り所となる存在はいる。日本人は無宗教が多いというが、その無宗教というのは『世界的に名前のついた宗教を信仰していない』というだけで、誰もが心の中に大なり小なり拠り所は持ってるのではないか、と思う。作中で隆春は『宗教は愛することの代替品』と言っている。山を下りた隆春は愛する人を見つけて、愛する人と暮らしている。そう考えるとオタクの祭壇や全通という愛し方を見ると、オタク趣味というのは無宗教な我々にとってのちいさな宗教なのかもなあ、と思う。

 

日本で宗教、というと怖い印象を持ってしまうけれど。健全に何かを心の拠り所にする、というのは良いことなのではないかな、と推しの曲を聞きながら思うのでした。

 

というわけでスリーピング・ブッダ、宗教について考えさせられる話でおすすめです。宗教絡みで家庭に何かあった人はトラウマを刺激される可能性もあるので、その点については注意の上で読んでみてください。